テキストはまちがわない

石原千秋のテキストはまちがわないを読み始める。結構、この人の本を読んでいる。もしかしたらファンかもしれない。


撲殺天使ドクロちゃん」のネーミングセンスに脱帽する。なぜ悪意と男性性の象徴といえる鬼の金棒的凶器と母性的受容の象徴である天使が一つの女性的人物に同居しうるのか?同居を可能とする蓋然性について触れることはその同居の理由を考えることでもある。さらに言えば、それら対立する2項を内包するドクロちゃんに内在する決定不可能性なるものについて読み取り、吟味する必要がこの物語が社会に受け入れられる(?)理由を探る上で重要な作業になるかもしれない…などとそれらしく、まったくでたらめに、お昼寝前に考えて、うとうとする。
まどろんでいる時間の現実に軸足を残しつつ現実感覚を感じながら、かつ片一方で現実ほど責任を持たなくいいふわふわした非現実中を浮遊できて、そういう無責任なバランスの心持に乗っかって居られる点において幸せを感じられるかもしれないなどと思った。


それよりも長年の生活により身についてしまった認知の歪みについて、種種の治療法で簡単に治るものなのだろうか?というのが最近の関心事。種種の療法でどこまで改善されるのか?きっと完治はなくて、歯医者に通うように経年でところどころ不具合が生じるたびに、治療を促すようなそんな感じなのではないかと勝手に想像してみたりしている。