水戸からの帰り
今朝、ずっと地平の向こうから陽が上るのを見ていた。ダイダイ色の陽の光が黄色に変わって、地平向こうの松林から手前のビル郡に差し込む様子に見ていた。太平洋側では朝日が綺麗に見える。
宿を出てから思い出の場所巡り。昔、広く見えた道路や大きかったアパート、明るく見えた建物が全部狭く、小さく、くすんで見えて寂しかった。
それでもそういう住んでいたアパートや仲間が住んでいた家の前、バイト先、いきつけのコンビニ、学校の傍、そういった場所をぶらぶら歩いていると昔に戻った錯覚になる。今が昔になるといった感じだ。行き来していた人の大半はいまはもういないので、そういう気持ちに浸りきるのを諦める。
それでも10年前と変わらずある人、あるものをまたそこで見かけると、今と昔が地続きであり、自分の来し方が現実にあるものと確認されて安心する。
十年一昔で、自分もその人やものも十年同じだけ年を喰っている。十年でお互いの本質が変質したかもしれない。見かけが変わらずにあったとしても。
はじめ小さな岐路であったとしても、まっすぐ進むのと今とでは大きく道を逸れてしまった自分にとって、昔に返ったような感覚はあくまで実態のない感覚で思い込みで、一見昔と変わらず眺めていたとしても眺め手の心が変われば、結局違うものとして目に映る。
何がいいたいかということは、なんとなくでてこない。なんとなく、ぼんやり心の底で物悲しい、もの寂しい、取り残したたくさんのものを感じた一日。