百年前の男と女

百年前の私たち――雑書から見る男と女 (講談社現代新書)

百年前の私たち――雑書から見る男と女 (講談社現代新書)

 事実を淡々と書き連ねてその判断は読み手に任せるのか、それとも書き手がある意図や方向性に基づいて資料を選択して書いていくのか、この二つのうちどちらの手法でこの本が書かれているかといえば後者の方である。なので、著者が恣意的な面や個性が色濃く現れる部分が多々ある。不勉強で断言できないところだけど、フェミニズム的な視点での捉え方で百年前を語られる部分は私はちょっと苦手だ。それ以外は面白い。
 脳を語るところは月並みだがドグラマグラの雄弁に演説するあんぽんたん先生を思い出した。進化論的なものさしや功利主義的な考え方は、以前読んだ本でこのころの日本に大きな影響を与えた哲学だとかかれていた覚えがある。それ以外の哲学や思想でも似たような話はたくさん見聞きしているので、この時代に限らずどの時代にも普遍的に現れる言論の流行と言うような一定の傾向なのだろう。
 そういう文化的な社会的な流行があったことを理解しておかないと、昔の人は突拍子もないとんでもな理論を大真面目で話していて、なんておバカなんだと!!と誤解してしまう。突拍子もないと感じることだとしてもその説一つだけを採って見るからで、全体の大きな言論の傾向からその説を見れば、当時もれなく確認される言論のトレンドに沿って書かれた、当時としては全うなお話だと言えるかもしれない。
 まっとうかまっとうでないかの境目は、その説が普遍性を持っているか?なのか、変化の連続性を読み手が同じ時代を生きて感じているから、違和感なく受け入れられるのかなのか?、いろいろあると思う。それはさておき、結局のところ、その時代によって変わる物差しでその時々の男女の仲を推し量ろうとして、共通の答えというか、返答のうちの一つの項目として挙げられる意味不明な存在であること
…これが一番なのではないだろうか?これから100年もそれ以上に同様に近くて遠いのは男女の関係が続いていくのだろう。そもそも同居人もよく分からないし、同居人も私のことをよく分かっていないだろう。そんな当たり障りのない感想を持って読了。


と、いうか大晦日だ。地元の知人らから新年会のお誘いがあるけど帰省しないのでいけません。残念。

 
雪不足が続いている。下越のスキー場のオープンは大丈夫か心配になってくる。あまり続きすぎると経営が吹っ飛んだり…てなこともあるし、そうなると行き場をなくすので困る。雪よ降れ。