携帯買い替え

d4132008-11-28

 ここ数ヶ月、結婚のドサクさにまぎれ、今後、買いづらくなりそうな高額なものを買っている。妻の人も私の購入傾向をうすうす気づいているようで、手狭な借家において新たに居場所を得たものを見つけるとその物の由来を尋ねることを繰り返している。
 そんなわけで今回買ったのは携帯電話。以前買ったのは4,5年前で、ソフトバンクがまだボーダフォンと名乗っていたころのものだ。4,5年前と言っても、まだ現役として十分使えていた。表面の塗装が剥げかけたのとバッテリーの持ちが半日も続かないのがやっかいな点と言えばそうだが、それは定年退職間近というより上司の使い方さえ間違えなければこなれて仕事をする壮年の雰囲気である。そのような理由からこの携帯をして骨董品扱いをされると心外な心持になることがたびたびあった。
 そもそも頻繁に連絡を取り合う友人を私はそれほど持っていない。だから携帯電話がなくてもさして困らないが、それでも不調法な他所へ出かけた時やPCが使えない場合の調べ物に不自由するのは辛い。特に先だっての東京に行った時などは地名や電車の時間の検索に重宝した。このように電話という本来の機能と違った利用法を主の利用とするため、私は仕方なしに携帯電話を持っている。
 そいうわけであまり買い換える必要性を感じずに買い換えた携帯電話。なんで買ってしまったのかよく分からない。ネットショッピングで買う時の「あっ、これいいな。ボタンをぽちっとな!」、ここまでの心理的な流れは見当識支配下にあっても、「あっ、これいいな」→「ボタンをぽちっとな!」の一連の「→」の部分にかかる思考がこれからは見えてこない。これでけ読めば短絡的の謗りを受けても致し方ないし、後付の理由ならいくらでもつけることができるが、これでは、「むしゃくしゃしていたのでなんとなく人を殺した。」と言っているのと同じ精神構造で浅はかだ。また、この「→」の部分で、自分の経済的状況等を踏まえた上で慎重に判断するためのしかるべき思考の流れがあってもおかしくなかったにも関わらず、「即ポチっとな。」という状況になったのか明確にすることができないのが気に入らない。
 なにが書きたいのか取り留めなくなってしまった。ただ、これがいわゆる通販マジックでマジックにいいように私が踊らされた結果なのだろう。が、買ってしまったからにはそんなことはあとの祭り。どうでもいいことで支払わなければならない。なにかで読んだ、「やると決めた時には既にやり終えているのが本物の仕事師」ということばが頭に浮かぶ。通販とはつまりはそういうことだ。


 今はこうしたもやもやした購買後のなんとも言えない感じを胸中に抱えつつ、分厚いマニュアルの頁をめくりっては読む手を止めて操作し、その結果生じるブラックボックスの手元の反応を嘆息と発見の驚きを繰り返して、観察している。そして今、このわけのわからないものを買ってしまった理由の正当性を時間の無駄使いに思えるこの過程を経て、いっこうに離れないなんとなくもやもやした気分を糊塗し納得させようと努力している。
 

 ただ、そんなこんな屁理屈を述べいても新製品は嬉しいもので、知らぬ間に新旧比較などありがちなことをしている。921SHというこの携帯の今までと違っていいところはオサイフ携帯ができるところでこれは正直関心、期待している。東京へ行って地下鉄の乗り換えで切符の買い替えが面倒なのでこれは便利になりそう。液晶画面が綺麗だし、もはや携帯の外装の大きさ並みに広がってしまった。携帯電話とは大げさに言うと黎明期からの付き合いだが、見た目からも機能からもなんだか違うもののに化けてしたかのようだ。
 それは小さい頃SFアニメで見たなんでもできる通信装置を具象化したかのようだ。そして、日本人のほぼ1人に1台くらいそれを持っている。こんな世の中でも小さい頃夢見た21世紀に近づいているのだなとちょこっと思った。