メタファー思考

メタファー思考 (講談社現代新書)

メタファー思考 (講談社現代新書)

 学生の頃、これと似た話を教養の授業でお勉強したことを思い出した。確かレトリックか何かに関する講義で、その授業の中の演習かレポートで比較的そういう表現の宝庫と思われる官能小説の中の比喩的な表現を何かにまとめて提出した覚えがある。
 これはこれで若気の至りなのだけれど、当時も今もメタファーだのレトリックだの譬えの類と言うのは、特別意識して口頭なり文章なりで表現するものだと理解していた。例えば官能小説を執筆するような特殊な意識の下でなされる表現の中でこそ、それは多く見られるものと解していた。
 ところが、どうやらそういうことではなさそうだ。大方のAをBに置き換えて表現することは、特殊な意識の下で気の利いた表現をやってやろう式にやろうとしていることではない。もちろん、そういうスケベ心もあることはあるだろう。ただ、大多数の日常における言語の使用において、我々は無意識に知らず知らずの内に先人が築いたメタファー的な表現を慣用句的に使っている。ということは、学生のころの考えとは180異なることになるわけで、当然、赤面する。
 私にとってこの手の本はこの本1冊だけなので理解はかなり浅いが、浅いなりにまとめてみる。例えば、「表現の宝庫」の「宝庫」はずばり直球だろう。一方、「表現」。これは「(内面で考えたことを)表に現す行為」であろうが、「物質的なものとして実在しない思考を行う内面」を規定する必要がある。その上で、「それを起点に表出する場の外面」となるを「表」が対立的に規定されるだろうし、その内外を定め、明確に内外の間があると認識されたことを前提に、その内から外へと思考の表出について表したのが「表現」という言葉となるのだろう。ここで、この書に従ってさらに考えてみると「存在しない内面」を「あるもの」と見なすことが大前提で、それがなければ「表現」という言葉が成立しない。この点でこの言葉もメタファーの支配を受けた言葉なのであろう。
 本書では、これと同じことをもっと正確に正しい手法を例示しながら記されている。こういった具合に言葉を一つずつ見ていくと、日常遣いのありとあらゆる言葉がメタファーの支配に拠って規定されているというお話で、だからメタファーとは特別なものでないという考えに落着いている。
 一通り読んでみて、どこかで見たことがあると思ったら、言語学で言葉を音素の単位に分解して定義しようとする考え方を思い出した。現代の学問はおそらくソシュール以後の言語学の考え方の影響をかなり受けているのだろうから、こういう他分野でも同じような手法で単語を分解・構成する漢字一文字のレベルでの意味を読み取って行くやりかたに行き着くのだろう。
 

 夢思想を圧縮したのが夢内容と言うフロイト夢分析の考え方。無数にある思考の中から一つをチョイスし、それから関連したものが連想して出てきたり…というのは、風呂場で歌う鼻歌がいままで聴いてきた音楽の美味しいとりのような慣れ親しんだ節回しというか、そういのものと同類なんだろう…と浅はかななりにかそんなことも考えてみた。鼻歌(夢思想)を文章や思考、神話に置き換えてみる。