前合わせ/吾輩は猫である

d4132008-11-21

 式の前日。非番で着替えて、式場のホテル日航新潟へ。昼過ぎに向こうの家の母親と合流する。
 小一時間ほど式担当の人とビデオ撮影等の打ち合わせをし、その後、当日に着る衣装に着替えて写真撮影をする。撮影をする場所への移動のため、廊下やロビーなどの人の集まるところを歩かなければならない。この日は経済同友会という団体が会議を行っており、ちょうどその休憩に撮影の時間がかち合ってしまい、その廊下やロビーでぞろぞろしている背広を着た人たちの前を、我々二人だけ場違いな結婚衣装姿で歩かなければならず、ちょっと恥ずかしい思いをした。
 写真撮影のポーズの指示は緻密で、撮影終了後、アルバムに採用する写真のセレクションのため、撮影したものを見せてもらったが、姿勢はどの写真もまったく同じで表情だけちょっとづつ違って映っていた。まるで、写真を使ったぱらぱら漫画を見るようで軽く感動した。
 いろいろ終わって、帰ったのは6時過ぎ。外を出たら、あられに土砂降り。家に着いたらこちらの親が家についていた。
 しらばらくするうちに職場から、支店長が亡くなったと連絡があった。弔問は上司が代表して出席するということで、香典は取りまとめの上、立替でお願いしてもらうことにした。



吾輩は猫である (岩波文庫)

吾輩は猫である (岩波文庫)

 読了。
 書生に投げられ池で溺れ死なずに済んだ猫は、結局、盥に溜まった水に溺れて死んでしまう。自由闊達で溢れるばかりの言葉の行列、多弁で快活な文体、擬人化した猫の目線から周囲にいる人たちを滑稽に描いている。虞美人草しかり、草枕しかり、この時期の漱石の文章は、袋をひっくり返した包み飴のようだ。
 中身に話を移すと、猫の味方するところの苦沙弥先生一同は俗世間から逃避的。金田氏と比較するとかなり弱弱しい。金田氏へ実力行使は望むべくこともなく、能書きと曲解で自分らが無力で非力であることから目を背け、攻撃できない自分に溜飲を下げている。一方、金の力の純粋培養的な行使を象徴する金田一族は、当時の社会的風潮の象徴でもあろうか、自分の望むところに進むためには力強くことごとく蹂躙する。これは今の世の中にも通じる。金持ちはけんかするし、金と金持ちのステータスがあるから負けない。
 そいうったささやかな領域、自分の寄るべき自尊心の発するところを侵害され、対抗する術も力もなくやられっぱなしの煩悶を感じているだろう苦沙弥先生の心中は、口先だけ達者でも人の心の奥深いところまで洞察できない。所詮生まれて2年程度の猫には理解できないから、主従(そもそも両者の間でそういう契約が成り立つか分からない。一宿一飯の恩を猫が感じ取って、主従と解しているかもしれないが、苦沙弥先生についてそういう意識が見えてこない。)心が伝わり合わないギャップが読み手に滑稽感を与えるのだろう。この猫は煩悶を分からないまま、ほろ酔い気分で死んでしまう。遠まわしの自殺か。
 この猫が溺れ死んだ後も苦沙弥先生らの屁理屈人生は果てしなく進歩なく続くし、金田一族の強欲は際限なく広がるだろう。この2者間の対比から社会的弱者たる苦沙弥先生一同が、か弱く守る自分の領域さえ、己の欲得算段から侵害してくる金田的煩いから逃れるには気狂いか、沙門に入るか、自殺かしか選択がないということを、最後に酔っ払って溺れる死ぬことへ抵抗することをよした猫が象徴しているような気がする。
 しかし、この猫の死に際の発した独白は誰にも伝わらず、盥の中で消えていくだけで無意味だ。一方、苦沙弥先生らが考える3者1択の考も、酔っ払って溺れる死ぬことで象徴した猫の死に際と同じく世の中の流れには無駄、便所でするため息のようなだれにも聞かれることのないつぶやきのように感じられる。仲間内で面白おかしく話をしても世間に発表するでもなし、仮に共振する人が世間に出たとしても独仙の弟子のごとく精神病院に入院させられるとしたら、広がるどころか自分の存在も危ない。言うだけ無駄で、便所の中でこだまするだけな気がする。
 そういった2者の間に立つ存在として気になるのは多々良くんの存在で、苦沙弥先生一同と金田一家とのそれぞれとも距離を置いて書かれている。苦沙弥先生の同級生の実業家は完全に金田にのみこまれいるが、この多々良君はそれとは違い2つの対立の中間と登場し、異なる価値感を清濁併せて呑み干してしまう。漱石はこの存在にどういう意味づけをしたか、また、物語の構造的にこういう両者を仲介するような存在が持つ意味はどういう意味があるのか、ちょっと考える必要がある。
 それはともかく、100年後の自殺学の隆盛の予言、自殺の力学、首溢けの松、独仙の弟子の精神病入院云々、自殺と気狂いがテーマと言ってもいいくらい、滑稽のデコレーションを取り除くと内容は重い。猫は実感として受け入れられ、かつ批判意識を持って読める年齢、きちんと月給を貰って、家族を養うようになってから読むのが本筋、正しい鑑賞のタイミングかと思うわれる。
 これは読書感想文などで子供に読ませるような類の本では、決してない。