坊ちゃん

坊っちゃん (岩波文庫)

坊っちゃん (岩波文庫)

 恥ずかしながら、生まれて初めて読んだ。今まで、坊ちゃんが教師として成長していく物語だと思い込んでいた。それがこの物語が学校図書として長年愛されてきた理由と思い込んでいた。
 ところが、この青年教師は少なくても教師時代の1ヶ月間はほとんど成長してない。昔、隣の質屋の息子と取っ組み合いをした幼少期となんら変わらない気持ちで松山での教師時代を過ごし、結局職を辞している。それは、幼少期と松山時代の回想を比べて、連続するものとして違和感がないことから言える。
 また、痛快といわれる物語の背後に、様々な悲哀が隠れており、坊ちゃんの一人語りが自分自身よってなした英雄的行動の自賛に装飾されたため、見えなくなっている点について心にとどめておくことも必要と思われる。
 こういった人間の波乱の多かろう大学の3年間をわすか数ページで終わり、大きなエピソードがない点について興味が引かれる。清と甥とのエピソードだけ語られ、なぜ、大学時代の坊ちゃんが語られなかったか?語るべきことがなかったのか、その理由はよくわからないがこの見えない空白の3年の物語に、どのような物語が語られるはずだったのか強く興味が残った。以上、読後の初発の感想。


次に、この物語は以下の層を持っていると考えた。
1就職先で不適応を起こして、
 1ヵ月で仕事を辞めちゃうADHDの人のお話。
2地方都市に馴染めない、疎外感を持った坊ちゃんが
 自分を江戸っ子だと自己規定することで心の安定を図るお話。
 その裏返しとしての、田舎蔑視。
3明治以後の近代化によって生じた新たな道徳観やシステムに対する
 江戸文化的視点からの批判の話。
正岡子規への悔恨。


 1と2は、通り一辺倒に読んだ感想。
 2と3は、この物語の二項対立から見える。赤シャツや野だいことと山嵐と坊ちゃん、うらなりの関係、または、マドンナを介しての赤シャツとうらなりの関係、清とマドンナの対比など。
 以下は、各項目について、細かく考えた点。

 特に2に関しては気になる点だと思う。坊ちゃんと生徒の確執に、喧嘩騒動後の山嵐の存在ができたにも関わらず、対立の関係が緩まない、というより、坊ちゃんだけが意固地に生徒を拒絶している。騒動後、生徒から賞賛を受けているが、それに対してさえ坊ちゃんは被害的に受け止めている。
 坊ちゃん的には、江戸と松山という坊ちゃん内で対立する大きな二つの項目が対立という一点で関係が強化され、同時にその二つを内包して坊ちゃんと生徒の関係を象徴する小さい枠組みが、すでに大きな江戸と松山な枠組みに込まれており、坊ちゃんと生徒の対立を緩める第三者として山嵐が間に生じたとしてももはや手遅れなほど対立が大きく、松山への怨嗟が坊ちゃんの中で募っていたと勝手に解釈した。
 以下は3に関して。この小説が漱石のロンドン留学後に書かれ、そのロンドンを漱石が快く思わなかったことを思いやれば、松山をロンドンの裏写しでないとも言えない。東京=江戸で、江戸的な古い儒教的道徳観のある場所。ロンドン=松山で、赤シャツなど西洋近代的存在がいる場所と。西洋近代的な考えでは、自分の利害を取る。結婚相手を金のものさしでみるマドンナや学校での影響力を大きくすることに汲々とする赤シャツなど、赤シャツについては学校での人事面、特に給料を握っていることも大きく、寛一お宮のお宮のように金によって内面が支配される近代的ありかたへの遠巻きの批判と受け取れる。
 一方、清については、高禄の元旗本か御家人の出ながら、明治維新で没落、下女に身を落とし、今にいたる老婆である。この旧旗本の娘というのは、江戸的な価値観を有する存在の象徴として読み取れるし、無私で坊ちゃんに尽くす姿は、金や地位などで算段する赤シャツや野だいこなどの言動を対比させると、余計に目立つ。かつ、この江戸的な存在が高齢で死を案じさせる存在であることは、いずれ江戸的な価値観の死滅することを予見させるに十分足る。
 4については、以下のとおり。小森陽一氏の「漱石を読み直す」によると、ロンドンからの漱石の手紙を心待ちにしていた病床の子規の姿を清に映し、2回目の手紙を書かずに死んでしまった子規に対応して、2度目の松山時代の出来事を細かく書いた手紙を清の死後に書いていることなど、子規との約束を果たせなかった思いを清を介して描かれているとのことである。
 小森氏の説に基づいて考えると、清と子規は漱石的には同じ意味を持つだろうし、したがって、あえて自分の中で引け目に思うところを書くことは子規への漱石の自己処罰的な態度の表れを感じてとるにはいられない。この松山への怨嗟と出奔は、ロンドンへの怨嗟と子規の死に目に合えなかった自分自身の後悔を反映したものと考えるとしっくりくる。
 と、いろいろ書き連ねたが、読後に残るものは大きい。
 やはり名作。
 以上、チラシの裏。目新しくもなし。