親知らず

 この数年来、歯周病や虫歯の原因になるから抜くよう医者から指摘されてきた右下の親知らずを抜いた。先日の通院で医者にこれ以上これを放置すると他の健康の歯に被害を与えるおそれがあるので、いよいよ抜歯しましょうと最後通告を受けている。今日の処置はそれを受けてのことになる。
 何回もコピーを繰り返して文字の輪郭がにじんで精彩さにかける用紙を渡される。麻酔をする前に抜歯に関する同意書と治療の手順書だ。一折目を通してサインする。
 その後、口中に麻酔を施され、あれよあれよと親知らずは取り除く手はずが進んでしまう。不要の歯の処置はなかなか凄惨なもので、コンクリートのコア抜きを口中の中でやられているような血や肉や歯のかけらが口中飛び散っているおぞましい映像が伝わる振動から喚起されてしまう。そういった2時間を過ごした。
 以前、上顎の親知らずを抜いていたことがあり親知らずを抜くことの痛みにだいたい検討をつけていた。ところが、経験者の話を聞くと下あごのはこれとはまったく違うらしい。というものも、その後、立ち寄った床屋の店主の話によると、彼が数年前に下あごの親知らずを抜いた時、術後の痛みが原因で口の開閉が困難になり、まともに食事が取れなかったと言う。
 痛みがひけるまでの間は、口を小さく開けてなんとかすすることができるうどんのような麺類しか口を通らなかったとのこと。食欲はあるのに食べれないし、かと言って口を開けばあごが猛烈に痛いと当時を振り返って熱っぽく語っていた。
 そのときの私の口中はまだ麻酔が効いていて、口の開閉も麻酔のもそもそした感覚以外不便を感じていなかったから、なにをそんな大げさに…とたかをくくって聴いていた。もっとも、以前の上あごのヤツの時にそれほど難儀をした記憶がなかったし、その後やってくる猛烈な痛みも麻酔にかき消されてその時は無自覚だった。
 そんなこんなで、「以前、上顎の親知らずをやっているので、その時はそれほど辛くなかったでしたよ。」と話を向けると、マスターは「自分も同じで下あごの前に上あごをやっているんです。そのときはそう痛くなかったです。お客さんは今回下あごですね。腫れでよく分かります。自分のうどんしか食べれないときは下あごだったんですよ。上あごと同じ痛みかと思っていたら、甘かったでした。」というようなことをやりとりしているうちに、なんか下あごが重苦しくなる。痛いのかなんなのかよく分からないが、とにかく下あごが異常だ。そのうち、手の内に脂汗をかきはじめ、これがマスターが言っていた下の親知らずを抜いた強烈な痛みだとようやく認識される。
 その後は、マスターと話をしばらくしたと思うが、痛くない素振りを貫き通すことそればかり考えて、なんだかよくわからないうちにひげをそられて床屋が終わった。
 うちに帰って、夕食を食べた。痛み止めを飲めばそれなりに痛みは収まる。でも、口を開くと痛い。なんか血はながれっぱなしだし、口は開かないし、食べてもおちょぼぐちで喰っては食べた気がしない。もやっとした気分で起きていても仕方ないので、早めに寝る。
 自分自身が生み出した体の一部分に、地獄の責め苦を与えられた一日。