「坊ちゃん」はなぜ市電の技術者になったか

「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか (新潮文庫)

「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか (新潮文庫)

 ざっと一通り読み通したところ、表題の問いへの明確な回答はこれといって文中で見られなかった。むしろ、漱石はなぜ「坊ちゃん」を市電の技術者にしたのか?に答えている気がする。本文に従い、大雑把な解釈を試みると次の通り。理系知識人が自分の能力や知識を活用できる職場を選ぶ時に、その後の発展性やら自分の専門性を生かせる場所やら考慮した上で目に入ったのが当時勃興しかけていた鉄道産業でそれを仕事に選んだと言ったところ?
 坊ちゃんはたぶんそんな計算高い人間ではないと私は思っている。だから、私はその考えに反対だ。
 例えば、道端を歩いてたまたま見かけた理科大学の募集要項に応募して入学したのと同じく、たまたま技手募集のチラシを見て、それなりの給料とそれなりの自分の専門性を活かせる職場と判断して就職したのではないか個人的には思っている。
 その「たまたま」なりにが重要で、自分の自発的な意志にしたがって重要な人生の岐路を決めることが彼には必要で、同様に自分の意志で決めたからこそなんとなく入った理科大学も卒業できたのだろうし、推薦で入った教師よりも自分で選んだ街鉄の技手を給料が安くても勤め上げたのではないかと勝手に想像している。あくまで根拠のない想像というか妄想。以上、チラシの裏

 
 一方、等級列車の件について。この等級列車の強力な区別選別制度は同じ体験をしないと分からないだろう。ざっと思い起こして考えてみると、その制度の不条理具合は中学高校の先輩後輩の関係がそれに近いかなと思ってみるが、21世紀の僕なので本質的なところは理解できていない。
 こういった文化的な記号の解釈の仕方は、現代の視点で読みとってはならないだろうと思っている。私が思う前から多くの権威ある学者が言っているのだから、間違いなく正しい考えだろう。というか、そういう学者の本を読んで私が勉強したのだから、まぁそういうところ。
 とにかく、往時の意味を持って解釈しなければ、物語の本質を大きく読み誤るはずだ。それは古事記も同様。儒教や仏教流入以前の古事を読む上で儒教流・仏教流の解釈をしてしまっては古事本来の意味を読み損なう。本居宣長が考えたこともたぶんこれに近いとだろうと思う。
 この点はたとえ今と近い時代であっても、若干時代が下がれば言葉の意味合いも差異が生じているだろうから、物語を解釈する上できちんとその差異を読み取って読み進めることが必要と思う。
 以上の点から、これと同様のスタンスが要求される。
 今より100年前の時代の坊ちゃんが道後温泉へ行く件と芥川の蜜柑を併せて読むと電車の等級の文化背景がおぼろげなり見えてくる気がする。二人の作者がその場面に持たせた意味づけを正しく理解できる気もする。また一方、その作者の意図を正しく理解できるかどうかは脇においておいて、その場面が裏で意味する当時の人が読んで勝手に解釈した意味はその文化的な記号の意味を理解していないと見えてこないだろう。
 なにを書きたいが分からなくなったが、これからもこういった部分も読みながら読んで行きたいと思った。ちゃんちゃん。